AI導入時の就業規則・社内規程はどう変えるか

生成AIを社内で使い始めるなら、就業規則そのものより先に「AI利用ガイドライン」という 別文書を作るのが現実的です。常時10人以上の労働者を使用する事業場は、就業規則の作成・変更に 労働基準監督署への届出が必要です(労働基準法第89条。違反時は同法第120条により30万円以下の罰金。 出典:厚生労働省「スタートアップ労働条件」)。 ガイドラインなら社内周知だけで運用を始められます。 見直しが必要な項目は主に「使ってよい範囲」「秘密情報の扱い」「違反したときの扱い」の3つです。 一般的な整備の手間から試算すると、ゼロから作る場合で10〜20時間、 既存のひな形をもとに作る場合で3〜5時間かかる計算になります(前提は後述の表)。
そもそも就業規則を変える必要があるのか
結論から言うと、多くの会社では就業規則本体を変えなくても運用を始められます。 就業規則は労働条件(賃金、労働時間、懲戒など)を定める文書で、 「どのツールを使ってよいか」という業務ルールまで書き込む会社は多くありません。
そこで実務上は、次の2段構えにするのが一般的です。
- 就業規則:懲戒事由に「情報の不正利用・漏えい」が既に含まれているかを確認する。 含まれていれば、AI経由の情報漏えいもこの条文でカバーできる可能性が高い
- AI利用ガイドライン(社内規程):どのAIツールを、どの業務で、 どんな情報を入力してよいかを具体的に定める別文書として新設する
既存の就業規則に懲戒事由の条文が無い、または古い表現のままで AI経由の情報漏えいを想定していないと解釈される場合は、 就業規則本体の改定も必要になります。この判断は自社の条文を 実際に読んで確認する作業なので、就業規則の現物を手元に置いて進めてください。判断に迷う場合は社会保険労務士など専門家への相談をおすすめします。
AI利用ガイドラインに何を書くべきか
生成AIの利用ガイドラインで最低限決めておくべき項目は次の5つです。
- 使ってよいAIツールの一覧:会社が契約・許可したツールだけを使う前提にする。 個人契約のツールを業務で無断使用することを禁止する一文を入れる
- 入力してはいけない情報:顧客の個人情報、取引先の非公開情報、 未公表の財務数値、他社との契約書の内容など。具体例を列挙する
- AIの出力の扱い方:AIが作った文章・画像をそのまま社外に出してよいか、 人の確認を経てから出すかを明記する
- 著作権・商標に関する注意:AIが生成した画像や文章が 既存の著作物に似ている可能性がある点への言及
- 違反時の扱い:ガイドライン違反が見つかった場合、 就業規則の懲戒規定のどの条文が適用されるかを明記する
ガイドラインは法律文書ではないため、社内周知と合意形成ができれば 比較的短期間で運用を始められます。ただし懲戒処分と連動させる場合は、 就業規則側の根拠条文と矛盾しないように整合を取る必要があります。
秘密保持・情報漏えいの規程はどう変わるか
既存の秘密保持規程の多くは「紙の資料を持ち出さない」「メールで送らない」といった、 情報の"移動経路"を想定して作られています。生成AIチャットへの入力は、 この経路の想定に入っていないことがほとんどです。
見直しのポイントは次の3点です。
- 「入力」も情報の持ち出しに含まれることを明記する。 AIチャットに情報を打ち込む行為が、外部への情報提供にあたる可能性がある旨を追記する
- 学習利用の有無に応じた区分を作る。契約しているAIツールが 入力内容を学習に使う設定になっているかどうかで、入力してよい情報の範囲を変える (学習利用OFFの契約でも、扱える情報の範囲は会社ごとに判断が必要)
- 委託先・取引先の秘密情報の扱いを別枠で定める。 自社の情報だけでなく、取引先から預かった情報をAIに入力する行為は 契約違反にあたる可能性があるため、独立した項目として注意喚起する
これらの条文の具体的な文言は、業種や取り扱う情報の種類によって変わります。 厚生労働省が公表している生成AI利用向けの秘密保持条項のモデル文例は見当たりませんでした。 業界団体である日本ディープラーニング協会(JDLA)が「生成AIの利用ガイドライン」の ひな型(無料公開、2023年10月公開の第1.1版)を配布していますが(JDLA資料室)、 秘密保持条項の具体的な文言まで自社の実態に照らして使えるかどうかは、 自社の業種と情報の扱いに照らした個別の確認が必要です。必要に応じて社会保険労務士・弁護士に相談してください。
規程整備にかかる時間はどれくらいか
| 作業 | ゼロから作る場合 | ひな形を使う場合 | 差 |
|---|---|---|---|
| AI利用ガイドラインの起案 | 4〜8時間 | 1〜2時間 | 3〜6時間 |
| 秘密保持規程の見直し・追記 | 3〜5時間 | 1時間 | 2〜4時間 |
| 社内周知・説明会の準備 | 2〜3時間 | 1時間 | 1〜2時間 |
| 就業規則本体の改定(必要な場合) | 5〜10時間+社労士確認 | 該当なし | - |
前提:総務・人事担当者1名が規程文書を作成し、 社内での確認・修正のやり取りを含めた作業時間として試算。 「ひな形を使う場合」は、AIに既存の一般的なガイドライン構成を たたき台として作らせ、自社向けに数値・固有名詞を修正する形を想定。 就業規則本体の改定は労働基準監督署への届出作業を含まないため、 届出が必要な場合はさらに時間がかかります。 AIにたたき台を作らせても、法的な妥当性の確認は人(できれば社会保険労務士・弁護士)が 行う前提であり、その確認時間はこの表に含めていません。
導入時期と規程整備、どちらを先にすべきか
「まず使ってみてから規程を整える」と「規程を先に作ってから使い始める」の どちらが良いかは、会社の状況によって分かれます。
- 情報漏えいのリスクが高い業務(顧客の個人情報や契約書を扱う部署)から 使い始める場合は、ガイドラインを先に作ってから導入したほうが安全です
- 社内資料の下書きや議事録の要約など、機密性が低い用途から試す場合は、 簡易な注意事項(入力禁止情報のリストだけ)を先に共有し、 本格導入までにガイドラインを整備する進め方でも問題は起きにくいと考えられます
いずれの場合も、「使い始めてから何も決めないまま数か月放置する」状態が 最もリスクが高くなります。試験導入から本格運用に移る前には、 最低限のガイドラインが整っていることを確認する必要があります。
懲戒事由に追加すべきか、既存条文で対応できるか
多くの就業規則には、次のような懲戒事由がすでに存在します。
- 会社の機密情報を漏えいした場合
- 業務上の指示・規程に違反した場合
- 会社に損害を与えた場合
生成AIの不適切利用(機密情報の入力、無断でのツール利用、 AIの出力を確認せず社外に出して誤りが広まった場合など)の多くは、 理論上はこれらの既存条文でカバーできる可能性があります。
ただし「AIガイドライン違反」という行為が、既存条文のどれに該当するかを 従業員が具体的にイメージできるようにするには、ガイドライン側に 「本ガイドライン違反は就業規則第◯条(懲戒)の対象となる」と 明記しておくことが望ましいとされています。この対応関係が 実際に有効に機能するかどうかの法的な判断は、社会保険労務士・弁護士など専門家に確認してください。
なお、就業規則が懲戒の根拠として機能するには、条文の存在に加えて 従業員への周知が必要とされています。最高裁判例(フジ興産事件、 最高裁平成15年10月10日第二小法廷判決)は、就業規則が拘束力を持つには 労働者への周知手続きが必要である旨を示しました。AI利用ガイドラインを 就業規則の懲戒事由と結び付ける場合も、作成するだけでなく、 従業員に周知した記録を残しておくことが実務上のポイントになります。
費用感
社会保険労務士や弁護士に規程の作成・確認を依頼する場合の費用は、 依頼する業務範囲(新規作成か、既存文書のチェックのみか)によって大きく変わります。 参考として、就業規則本体の新規作成を社労士に依頼する場合の費用は、 ある社会保険労務士事務所が公開している解説記事によれば、 法令の最低限を満たすだけの内容なら3万円程度から、従業員とのトラブル対応まで 見込んだ作りこみでは50万〜100万円程度まで幅があるとされています (出典:あべ社労士事務所「就業規則作成にかかる費用の相場」)。 AI利用ガイドラインという新しい文書類型については、 依頼費用の公的な相場資料が見当たらないため、依頼前に複数の事務所から見積もりを取って比較してください。
AIを使ってたたき台を作る工程自体には追加費用がかからないことが多く、 既存の生成AI契約の範囲内で完結します。費用がかかるのは、 たたき台を法的に確認してもらう段階です。
よくある質問
Q. 就業規則を変えずにAI利用ガイドラインだけ作っても効力はありますか。 社内周知と合意形成ができていれば、業務命令や服務規律の一環として 運用することは可能と考えられます。ただし懲戒処分と直接連動させたい場合は、 就業規則側の根拠条文との整合を確認する必要があります。
Q. 中小企業でも社労士・弁護士への確認は必要ですか。 規程の文言をそのまま使うだけであれば必須ではありませんが、 懲戒処分や情報漏えい発覚時のトラブルに発展した場合に備えて、 少なくとも一度は専門家に目を通してもらうことをおすすめします。
Q. AI利用ガイドラインはどのくらいの頻度で見直すべきですか。 AIツールの機能や契約内容(学習利用の設定など)が変わるたびに 見直しが必要です。半年に1回程度、契約中のツールの仕様変更が 無いかを確認する運用が現実的です。
Q. 従業員が個人のAIアカウントで業務をしてしまうのを防ぐにはどうすればよいですか。 ガイドラインで会社契約のツール以外の業務利用を禁止する旨を明記した上で、 利用可能なツールを一覧で周知することが基本です。 技術的な利用制限(アクセス制御など)を併用する会社もあります。
Q. パート・アルバイトにもガイドラインは適用されますか。 業務でAIツールに触れる可能性がある従業員全員に適用するのが基本的な考え方です。 雇用形態によって適用対象を変える場合は、その理由を明確にしておく必要があります。
読んだ内容の確認に3問だけ。押すと答えが開きます。
Q1. 常時10人以上の労働者を使用する事業場で就業規則を変更する場合、労働基準監督署への届出が必要である。
○ — 労働基準法第89条により、常時10人以上の労働者を使用する事業場は就業規則の作成・変更に届出が必須。
Q2. 社内資料の下書きなど機密性が低い用途からAI導入を始める場合、本格運用までの間に何も規程を整備しなくてもよい。
× — 試験導入から本格運用に移る前には、最低限のガイドラインが整っていることを確認する必要がある。
Q3. 秘密保持規程の多くは既に『紙資料の持ち出し』の範囲にAIチャット入力も含めて作られている。
× — 生成AIチャットへの入力は、従来の移動経路の想定に入っていないことがほとんど。


